農薬は本当に必要?

農薬に関する法律、指導要綱、社会的役割などについて

「農薬」が無い時代は、どの様に防除していたのですか。

古代のエジプト、ローマ、中国等では虫害や病害は天災としてあきらめたり、神仏に祈ったり、ワインやオリーブ油等が利用されていました。近代には鯨油や除虫菊やボルドー液等が利用されました。

人類の歴史を遡ると、古代エジプトのトビバッタによる被害、ローマ時代の小麦のさび病と思われる病害、中国では後漢の時代(西暦、25~220年)のウンカによる被害の記録が残されています。当時は、天災としてあきらめたり神に祈ったりするのが主でしたが、それだけではなく、耕作方法や品種を変えたり、被害を防ぐための手段を探し求めたりと、さまざまな努力もなされていたようです。

ワインやオリーブ油も農薬の替わりに

紀元前のギリシアやローマでは、いろいろな植物を煮出した液やワインに作物の種子をつけ、播種後の害虫を防ごうとしたようです。生育中の作物には、バイケイソウ、ウチワマメ、ドクニンジン、ツルボといった植物の浸出液が散布されていましたが、今日では、これらの植物に殺虫成分が含まれていることが知られています。また、オリーブ油の搾りかす(リモネン)が殺虫剤として使われたといいます。硫黄を燃やし害虫を防除することも行なわれ、この燻煙法は1500年頃まで続けられていました。硫黄の病気に対する効果は紀元前1000年ごろには知られており、現在は使い易い液状の製剤にして使用されています。硫黄は今に残る最も古い農薬といえます。

日本では鯨油が

1690年には、フランスでタバコの粉を害虫駆除に用いた記録があり、同じ頃、日本では1670年(寛文10年)に鯨油を使った注油法が発見されています。この方法は、まず油を水田に注いで水の表面に被膜をつくります。次にイネを竹笹などで払って害虫をそこに落とします。落ちた虫は油が体に付着し気門がふさがれ窒息死します。油は主に鯨油でしたが菜種油などの植物油が使われることもありました。この技術は筑前国(現在の福岡県北部)で偶然発見され、九州を中心に日本各地に広まりました。近世三大飢饉の一つ、1732年(亨保17年)の大飢饉は、原因の一つがウンカ類の大発生でした。その対策として、筑前、筑後(今の福岡県南部)、肥前(佐賀県や長崎県の一部)や加賀(石川県)など各地で注油法が使われました。それ以後、ウンカ類などが発生すると、幕府は鯨油による注油法を各藩に指示しましたが、鯨油が高価だったために容易に普及はしなかったようです。注油法は、明治初期に鯨油から石油に替わり第二次世界大戦後までウンカ類の防除法として利用されていました。

除虫菊やボルドー液も登場

1780年に、フランスのP.J.ビュショは『人間と家畜、農園芸の害虫史』を著しましたが、そのなかに紹介されている害虫防除法は、アブラムシが寄生する植物への鯨油の灌注、石けん水、石灰、石灰水、煤(スス)、「ハルタデの葉+ニンニク+塩」の煎じ汁、タバコ、セージ、ヤナギハッカ、ニガヨモギの煎じ汁の散布、樹木への牛糞や硫黄と硝石の燻煙などです。ちなみに最悪の害虫バッタについては「処置なし」と記しています。

1800年代になると、農薬にも新たな動きがでてきました。コーカサス地方(現ロシア、アルメニアなど)で除虫菊の粉を殺虫剤として用いたのに続き、デリス根が殺虫用に有効なことが知られるようになりました。1824年には硫黄と石灰の混合物がモモのうどんこ病に効果があることが認められ、のちに石灰硫黄合剤が考案され、うどんこ病、さび病、ハダニの防除に使われていました。

18世紀後半から木材の腐朽防止のため使われていた硫酸銅は、種子殺菌用としても使われるようになっていました。1873年にフランス・ボルドー大学のミヤルデ教授が偶然のきっかけで硫酸銅と石灰の混合物がブドウのべと病に著しい予防効果のあることを発見し、1882年ごろからボルドー液として大量に使われるようになりました。

このように、20世紀前半までは、天然物や無機物を中心にした農薬が開発され実用化されていました。そして、第二次世界大戦後に、現在の化学合成農薬の時代を迎えるのです。

参考文献
*岡本大二郎『虫獣除けの原風景』1992、日本植物防疫協会
*藤浪曄『変わる農薬』1991、住友化学工業株式会社
*小西正泰「農薬のきた道」農薬春秋No.60:3-7、1990、北興化学工業株式会社
*小西正泰編著『明治農学全集』第12巻、1984、農山漁村文化協会

(2017年4月)