自然や環境への影響は?

自然環境やその他生物に及ぼす影響などについて

食物連鎖により、農薬は濃縮されていくのではないですか。

かつて、DDTやBHCのような農薬が、生体内への蓄積性が高いと問題になりましたが、これらはすでに日本を含む多くの国で使用が禁止されております。現在使われている農薬は、生体内で分解・排泄されやすく濃縮率も低いものです。従って現在の農薬は、私たちの体への長期的な汚染、蓄積の心配はないと考えられています。

水中のプランクトンが小魚の餌になり、その小魚がより大型の魚に食べられ、その魚も水鳥の餌になり、さらにその水鳥もワシやタカといった猛禽類や哺乳類に食べられる、といった動物が食う食われる関係でつながっていることを「食物連鎖」といいます。これは水生生物だけでなく陸生動物も含めすべての動物にあてはまり、実際には単純なピラミッド状というよりは複雑な網の目状になっていますのでその頂点にいる生物は一概に決めることはできません。

このような食物連鎖のなかに、化学的に安定で、動物に取り込まれると分解や排泄されにくい反面、脂肪に溶けやすく酵素やたんぱく質などにも結びつきやすい物質が入ってくると、食物連鎖の段階を上がるごとに次第に濃縮の程度が進みます。これが「生物濃縮(biomagnification)」です(注)。生物濃縮が進めば、健康への慢性的な影響が現れるおそれがあります。

しかし現在では、生体内に蓄積し、食物連鎖により濃縮され、安全性に問題が発生する可能性のある農薬はありませんし、またそのような性質のある化合物は農薬として開発され使用されることはなくなっています。

生物濃縮は、レーチェル・カーソンの『サイレント・スプリング』(1962年)のなかで取り上げられたアメリカ・カリフォルニア州のクリア湖の例が有名です。この湖では夏場、ユスリカやガガンボの仲間が大量に発生し、釣り人やキャンパーを悩ませていました。そのため、1949年から1957年にかけて年に何回もDDTに似た殺虫剤のDDD が湖水に流し込まれました。不快な虫は減ったもののクリア湖の名物だった水鳥のカイツブリが大幅に減るという結果を招きました。この結果は、魚類に限らず、多様な生物を採餌しているカイツブリのエサ自体が減少したことも、一つの要因と考えることができますが、1950年末の調査では、カイツブリの体の脂肪中のDDD濃度と湖水の濃度とを比較した濃縮係数は178,500倍になっていたといいます。

生物濃縮は必ずしも水系に限られたことではなく、ヒトの母乳からもDDTが検出され、さらに、はるか南極のペンギンの脂肪層にも蓄積が確認されるようになりました。この事実は人類に大きな衝撃を与え、環境科学の発達をうながし、その後の農薬の開発にも大きな影響を及ぼしました。

ニューヨーク・タイムスの論説委員のコメントによれば、カーソン女史により指摘された問題に、農薬業界は良く対応して環境正義や企業倫理を守ってきたとされます。すなわち、「コマドリやその他の野鳥が姿を見せない沈黙の春が訪れるというカーソン女史の恐ろしいシナリオは、現実には起こらなかった。彼女の予言が外れた一つの重要な理由は、彼女の診断が正しかったからである」、「実際、社会や農薬企業は彼女の警告に耳を傾けて、DDTの使用禁止などの必要な改革を実施し、その結果、彼女の予言した沈黙の春を、少なくともこれまでのところ、回避することができた」とコメントしています(地球白書Worldwatch Institute、1998-99序文より)。

日本でも、『サイレンイト・スプリング』以来、DDTなどの有機塩素系殺虫剤の人体への蓄積の影響が懸念されるようになりました。1973年(昭和48年)にはDDTと同じような性質をもつPCB(農薬ではありませんが)による魚介類の汚染をきっかけにして「化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(化審法)」が制定されて、新しく開発された化学物質については、生分解性、慢性毒性とともに生物濃縮性が、コイを使って調べられることになりました。農薬については、農薬取締法により「生体内運命に関する試験(代謝試験)」が要求され、通常は、放射性同位元素で標識した農薬を用いて、動物への吸収、体内分布、分解の過程、排泄、蓄積性などや代謝物についての試験が行われるようになり、現在に至っています。

  • (注)化学物質でも水よりも油に溶けやすい親油性の高いものは水生生物により濃縮されます。逆に、水溶性の高いものは水中に留まり、生物には濃縮される傾向はありません。生物が外界から取り込んだ物質を外界よりも高い濃度に体内に蓄積する現象も「生物濃縮(bioconcentration)」といわれますが、上記の生態系を通じて食物連鎖によっておこる「生物濃縮(biomagnification)」とは区別されています。さらに、呼吸と食物の両方からの化学物質の取り込みによる濃縮を「生物蓄積(bioaccumulation)」として使い分けることもあります。
参考文献
*松中昭一『農薬のおはなし』2000、日本規格協会
*深海浩『変わりゆく農薬』1998、化学同人
*エリザベス・M・フェラン『創られた恐怖』1996、昭和堂
*杉本達芳『残留農薬のここが知りたいQ&A』1995、日本食品衛生協会

(2017年5月)