農薬情報局

防除の文明史

12.除虫菊興亡記

第二次世界大戦までの農薬は、天然物起源のものが主体であった。除虫菊もその一つである。

ことはじめ
俗に除虫菊と呼ぶキク科の多年生植物には2種類ある。すなわち、シロバナムシヨケギク(原産地:ダルマチア地方=クロアチア南部のアドリア海沿岸)とアカ バナムシヨケギク(原産地:カフカズ、アルメニアなど)である。これらの花(とくに子房)には殺虫成分(ピレトリン)があり、白花種により多く含有されて いるので、殺虫剤の原料としては、こちらが多用される。
原産地の住民は古くから除虫菊を「ノミとり草」や「ノミ殺し」と呼んで利用していた。そして、その原料を秘密にして、近隣地方に高値で売りつけていた。
ところで、1807年アルメニアの商人ユムチコフは息子に除虫菊の輸出を奨めた。それからまもなく除虫菊はドイツなどに販路が広がった。アメリカでは19世紀後半から大規模に栽培されるようになった。
ちなみに、除虫菊の乾花からピレトリンなどを抽出して粉剤や液剤などに製剤し、まず衛生害虫に、次いで農業害虫にたいしても使用したのである
シロバナムシヨケギク
シロバナムシヨケギク
日本への伝来と発展
日本へは1885年、玉利喜造がアメリカから除虫菊の種子を持ち帰り、それを東京・駒場の東京農林学校農場で栽培したのが最初であろう。
同年、駐日オーストリア・ハンガリー帝国領事のG・ヒュッテロットが日本政府に除虫菊の栽培を助言し、ダルマチア産の種子を提供した。農商務省はこれを 和歌山県に伝達して栽培させた(1886)。この年、同県の上山英一郎は、サンフランシスコ市の友人から除虫菊の種子を入手して栽培した。このように、日 本における除虫菊栽培は機熟して、欧米の複数ルートからの種子が試培されたのである。
こうして和歌山をはじめ、岡山、広島ほかで事業化され、続く北海道では大規模に栽培し、日本は1935年には世界最大の除虫菊産地に躍進した。
ところが、1941年の太平洋戦争ぼっ発とともに衰退の一途をたどり、現在は栽培皆無となっている。
除虫菊と戦局
太平洋戦争前の国産除虫菊の最大輸出相手国はアメリカであった。米軍は南方戦線ではピレトリンを蚊の防疫対策に利用した。
一方、日本軍は同戦場で蚊にたいして“丸腰”であったため、マラリアに感染して病死した将兵は、米軍の砲火による戦死者をはるかに上回ったという。
ある殺虫剤の有無が戦局を左右することもあったのである