農薬情報局

防除の文明史

9.メイチュウ 防除技術史の縮図

かつてメイチュウとウンカは、日本の稲作害虫の双璧であった。とくにメイチュウの防除技術は、あらゆる害虫のなかで最も多様である。ふつうメイチュウというとニカ(二化)メイガ(とくに幼虫)を指す。

駆除法ことはじめ
江戸農書には、よく「蝗」がでてくる。これはイナムシまたはオオネムシ(大稲虫の約)と訓じ、稲作害虫の総称であったが、実態としてはウンカ類を指す場合 が多い。それで蝗をイナゴと読ませるのは適当でない。中国では、蝗はバッタ(トノサマバッタ、飛蝗)のことである。なお、『聖書』の邦訳で「いなご」とし ているのは、すべて「ばった」の誤訳である。
さて、それではウンカの語源は何であろうか。諸説があるが、微小な体で群がるのでヌカムシ(糠虫)やコヌカムシ(小糠虫、粉糠虫)と呼んだのが転訛(て んか)したものと思う。日本でウンカに浮塵子を当てはめるのは誤用であり、中国では飛虱という。この飛虱は、日本ではケジラミのことである。そのいわれ は、「色男何処(どこ)でしよつたか飛び虱」(『末摘花』一)から推察されたい。
以上のように、「虫」の目でウルサイことをいわせてもらうと、いろいろなボロもでてくる。
防除技術の多様化
明治維新を迎えると、メイチュウは、官・民により科学的に研究されるようになり、種類(ニカメイチュウとサンカメイチュウの別)や生態などが解明され、それに基づいた各種の防除法も考案された。そして、メイチュウに関する啓蒙書も、明治中期までに数点刊行されている。
防除技術では、試行錯誤を重ねつつも、遁作(とんさく)法(播種と移植の時期をずらし産卵を回避)、鍬による刈株の掘り取りや切断、鎌による被害茎の切 り取り、成虫の捕殺と灯火誘殺などが励行されるようになった。当時、農村では小学生を動員してメイチュウの防除が奨励された。その具体例を示すと、富益良 一『校外小学生徒害虫駆除教本 全』(1905)があり、また以下に害虫唱歌『螟虫(めいちゅう)』(1907)の一節を紹介しておく。
「かく恐ろしき螟虫は まず苗代のたまごより探し出し摘みつくし 本田の稲におよぶべし」
その後、天敵(卵寄生蜂)の利用、青色蛍光誘蛾灯の開発・設置などが相次いでおこなわれた。効果の 上から画期的なのは、敗戦後まもなく欧米から導入されたBHCやパラチオンほか多くの有機合成殺虫剤である。とくにパラチオンは卓効を示したが、急性毒性 が強いため1967年に生産中止となった。また、BHC粒剤の水面施用は日本で開発された独創的な防除技術であった(1971年販売中止)。
ニカメイチュウは1965年ころから少発生の傾向が続き、マイナー・ペストに転落した。その原因については諸説がある。一方、局地的ではあるが、近年、メイチュウ復活の認められる地域も目につくようになった。
以上のメイチュウ対策のあゆみは、わが国の害虫防除技術史の縮図をみる思いがする。
虫髄の中に居る図 大蔵永常『除蝗録後編全』
虫髄の中に居る図
大蔵永常『除蝗録後編全』